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あしあと

    近世初期の大住村(2):関ヶ原の戦いと大住村

    • [2026年4月1日]
    • ID:23491

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     京田辺市史編さんの一環として、IT市史に取り組んでおり、京田辺の歴史や文化などをインターネット上で紹介しています。ここでは、近世初期の関ヶ原の戦いと大住村について紹介します。

    関ヶ原の戦いと大住村

     関ヶ原の戦いとは慶長5年(1600)9月15日に美濃国(現在の岐阜県)の関ヶ原で徳川家康率いる東軍と石田三成ら率いる西軍が衝突し、徳川家康が勝利した戦いです。今回は近世初期の大住村(1)に引き続き、醍醐寺第八〇代座主の義演の日記である『義演准后日記(ぎえんじゅごうにっき)』をもとに、関ヶ原の戦いに直面した大住村の様子を紹介します。

    伏見城の戦いと大住村

     関ヶ原の戦いの前哨戦として7月19日から8月1日にかけて、伏見城の戦いが勃発しました。遡ること6月18日、家康は家来の鳥居元忠を伏見城に残し、会津の上杉景勝を討伐するため東国へ出兵したところ、7月17日、大坂で石田三成らが挙兵し、家康を豊臣政権から追放しました。そして宇喜多秀家・小早川秀秋ら西軍は伏見城へ攻撃を開始します。

     醍醐寺は伏見城と数キロしか離れておらず【地図】、西軍からの乱妨狼藉の脅威に直面したことが知られています。7月20日の記事によると、「大住村ヨリ警固、門番を召し寄す」とあり、軍勢の乱妨狼藉から醍醐寺を警固するため、大住村の住人を門番として徴発しました。同26日の記事には「大住村衆」の半分を大住村に帰したとあり、1週間以上にわたり、大住村の住人が醍醐寺の警固に従事していたことがわかります。

     その後8月1日には伏見城は落城し、この合戦では西軍の勝利で幕を閉じました。伏見城落城後の8月15日の記事には、大住村から今年(=慶長5年)初めての年貢が上納されたと記しています。

    【地図】(国土地理院地理院地図に加筆)

    関ヶ原の戦い終結後の大住村

     伏見城の戦いは西軍が勝利しましたが、関ヶ原の戦いでは東軍が勝利、西軍は敗走することになりました。 この影響は山城国にも波及し、山科や八幡などの京都近郊で乱妨狼藉が発生しました。醍醐寺や石清水八幡宮などの京都周辺の寺社に対して、家康は軍勢による乱妨狼藉などの禁止を命じた禁制を出しました。京田辺市内でも、酬恩庵に家康の禁制が残されています。

     9月28日の記事によると、大住村も乱妨狼藉の被害を受けたようで、10月14日には大住村の百姓が醍醐寺へ出向き、乱妨狼藉により焼失してしまった「大住村帳」を書き写したようです。「村帳」とは、田畠の所在・等級・面積・年貢高・作人などを記した検地帳のことと考えられます。

     さらには、大住村は年貢の納入が困難な状況に置かれていました。11月1日の記事によると、関ヶ原の戦い後初めてとなる年貢が納められたようですが、少量であったようです。同24日の記事には、「大住村年貢、当月中に卅石納むべきの由請い申し、帰り了んぬ」とあり、大住村の百姓は11月中には年貢30石を納めると約束したようです。そして、年末の12月27日に年貢の皆済が実現しました(「大住村年貢来たり了んぬ、凡そ皆済か」)。ここに大住村にとっての「関ヶ原の戦い」が幕を閉じることになりました。

    参考文献

    河内将芳『秀吉没後の豊臣と徳川』(淡交社、2023)

    参考史料

    酒井信彦校訂/続群書類従完成会発行『義演准后日記 第二』(八木書店、1984)

    京田辺市市史編さん委員会編『京田辺市史資料編第2巻中世・近世資料』(京田辺市、2026)


    監修:野田泰三(京田辺市史編さん中世・近世部会員 京都橘大学文学部教授)

    作成:市史編さん室

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