近世初期の大住村(1):三宝院による大住村支配
- [2026年4月1日]
- ID:23490
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京田辺市史編さんの一環として、IT市史に取り組んでおり、京田辺の歴史や文化などをインターネット上で紹介しています。ここでは、近世初期の三宝院による大住村支配について紹介します。
三宝院による大住村支配
近世(江戸時代)の大住村では、淀藩・旗本天野氏・曇華院(どんげいん、尼門跡寺院)・醍醐寺三宝院の四者が領主として村を支配していました。このような一村に対して二者以上の領主が支配する知行形態のことを「相給(あいきゅう)」といいます。今回はその中でも大住村と醍醐寺三宝院の関係について、三宝院に入室し、醍醐寺第八〇代座主(ざす、大寺の寺務を統括する首席の僧)をつとめた義演(ぎえん)の日記である『義演准后日記(ぎえんじゅごうにっき)』をもとに紹介します。
醍醐寺三宝院が領主となった経緯
慶長3年(1598)8月6日の記事によると「新地、今日仰せ付けらるべきの由注進、領知所は上山城大住村と云々」とあり、豊臣秀吉から「新地」つまり新たな領地を与えられるとの情報が義演のもとに届き、その「新地」が上山城大住村であるらしいと記しています。さらには「御朱印、明日辺に出すべきか(後略)」とあり、明日あたりに秀吉から「御朱印」が出されるのではないかとも記しています。ここに出てくる「御朱印」とは、秀吉の朱印が捺された公文書(朱印状)のことです。
その2日後の8月8日、秀吉は四通の朱印状を義演や三宝院などに与えました。これは、正式に秀吉から三宝院に対して大住村の一部が与えられたことを意味します。以降、江戸時代を通じて三宝院が大住村の領主となりました。つまり、近世へと続く三宝院の大住村支配の端緒は豊臣秀吉の時代であったといえます。
同11日、義演は代官として大蔵卿法橋経紹と宰相上座長運の二人を大住村に派遣しました。また同30日、大住村の政所(まんどころ、村の代表者)が義演のもとを訪ねています。9月7日には年貢が上納された記事が、同28日には普請にやって来た大住村百姓に対し、普請を免除した記事などがみえます。他にも支配に関する記事が確認され、領主としての三宝院の姿をみることができます。

三宝院様御高分帳(文久3年)
大住村のグルメ?
慶長5年(1600)1月13日の記事に「大住村ヨリ土筆運上、驚目す」とあります。「土筆」とは、つくしのことです。大住村に関連するつくしの記事が他に確認できないので、明確なことは不明ですが、義演が春の訪れを告げる初物のつくしに目を引かれたことは間違いありません。例えば、奈良の興福寺の僧侶が記した日記から、つくしなどの季節物の山菜類に関心がむけられていたこと、それらを食していたことが知られています。興福寺の僧と同様に、義演もつくしを食したことでしょう。
参考文献
伊藤寿和「大和国における古代・中世の多様な山菜類の採集と食の実態に関する基礎的研究」(『日本女子大学紀要』68、2019)
上野大輔・小林准士編『日本近世史を見通す6 宗教・思想・文化』(吉川弘文館、2023)
参考史料
宝月圭吾・弥永貞三・酒井信彦校訂/続群書類従完成会発行『義演准后日記 第一』(八木書店、1976)
酒井信彦校訂/続群書類従完成会発行『義演准后日記 第二』(八木書店、1984)
京田辺市史編さん委員会編『京田辺市史資料編第2巻中世・近世資料』(京田辺市、2026)
監修:野田泰三(京田辺市史編さん中世・近世部会員 京都橘大学文学部教授)
作成:市史編さん室
