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    田辺町誕生以前の旧村域

    • [2024年3月28日]
    • ID:20401

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     京田辺市史編さんの一環として、IT市史に取り組んでおり、京田辺の歴史や文化などをインターネット上で紹介しています。ここでは、町村合併によって現在の町域を持つに至る以前の各村について紹介します。

    「田辺町」誕生以前

     現在の京田辺市は、大住、田辺、草内、三山木、普賢寺と大きく5つの地域に分けて語られることがあります。この5地域は、大住村、田辺町、草内村、三山木村、普賢寺村というように、元々はそれぞれ独立した地方自治体でした。この1町4村が、昭和26年(1951年)に合併して、現在とほぼ同様の区域を持つ田辺町が誕生し、現在に至ります。

    ※合併の経過については「昭和26年の合併による田辺町の誕生」の記事もご覧下さい。

     前述のとおり、昭和26年の町村合併以前の京田辺市域には、1町4村が独立した地方自治体として存在していました。当然、役場庁舎や、町長(村長)、議会など、すべて別のものを有していました。この5町村は、明治22年(1889年)に複数村の合併によって誕生しています。
     同年には近代的な地方自治制度である「市制町村制」が施行され、それに先だって大規模な町村合併が実施されました。このいわゆる明治の大合併によって、全国的にも、また京田辺市域においても、自治体の合併が進められます。明治21年の自治体数は71,314町村でしたが、明治22年には15,859市町村と、合併によって約5分の1に減少しています。京田辺市域においても、17村が5村へと再編されました。

     以下は、明治22年の各村の合併の状況です。

    合併以前の京田辺市域

    昭和26年以前の京田辺市域

    大住村

    大住村は、大住村と松井村が合併し誕生しました。両村とも江戸時代にはすでに大住村、松井村として存在しています。初代村長には、愛民義塾の発起人にも名を連ねた西村彦四郎が就任しました。

     松井、大住ともに字名として名前が残っており、松井は行政区名としても残っています。大住は行政区名としては残っていませんが、大住村内の集落名に由来する行政区名が複数存在します。
     当時の大住村には八小路、西村、東村、林、岡村、三野、関屋の七集落が存在しました。林を除く六集落は字名として名前が残っている他、八小路と西村は西八として、東村と林は東林として、岡村、三野はそのままの形で、行政区名として現在も名前が残っています。また、関屋は、昭和初期からの開発によって宅地範囲が広がり、現在では健康村という行政区に含まれます。

    大住村役場跡の石碑

    大住村役場跡の石碑(大住池平)
    何度かの移転の後、現在の大住小学校付近に移転した。

    田辺町

     田辺村、河原村、興戸村、薪村の4村が合併し、田辺村が誕生します。初代村長には、南山義塾の発起人にも名を連ねた西村篤が就任しました。西村篤は村長を退職後、補欠選挙により府会議員となり、府会議員の任期満了後、明治29年(1958年)には二度目の田辺村長となりました。

     江戸時代末期には、田辺村は田辺村、南田辺村、田辺新田村の3村で構成され、興戸村も北興戸村と南興戸村に別れていましたが、明治初期には合併によってそれぞれ田辺村、興戸村となっています。
     これらの4村はすべて字名・行政区名として名前が残っています。また、分館公民館もそれぞれの旧4村に設置されています。

     なお、合併後の田辺村は明治39年(1906年)に町制がしかれ、田辺町となります。また、大正15年(1926年)に郡役所が廃止されるまで、田辺町に郡役所が設置されていました。なお、郡制は大正12年に廃止されますが、大正15年までは町村に対する第1次監督官庁として綴喜郡役所は存続していました。

    田辺村長当選認可

    田辺村長当選認可(明治22年)

    草内村

     草内村は、草内村、東村、飯岡村が合併し誕生しました。3村とも江戸時代にはすでに同様の村域を持ち存在していました。初代村長には河瀬明太郎が就任します。
     これらの3村はすべて字名・行政区名として名前が残っています。また、分館公民館も旧3村に設置されています。

     なお、東村の東は河原村に対する東方を意味すると言われています。東村の成立由来には諸説がありますが、元々は河原村と一体性を有していたと考えられます。現在でも東・河原共同墓地が河原野色に存在しており、同墓地は明治19年(1886年)に東から移転したものです。

    移転前旧墓地の発掘調査の様子

    移転前旧墓地の発掘調査(平成5年・東西神屋)

    三山木村

     三山木村は、三山木村と宮津村の合併によって誕生し、初代村長には中川儀三郎が就任します。合併以前の両村は明治前期の合併によって誕生した村です。

     もともとの三山木村は高木村、南山村、山本村、出垣内村の4村が、宮津村は江津村と宮ノ口村が、それぞれ合併して誕生しました。このうち、出垣内村は二又、山崎、出垣内の三区に分けられます。三山木村という村名は、南山・山本・山崎(出垣内)の三つの山と高木の木を結びつけ、三山木と命名されたとされます。宮津村も同様に宮ノ口と江津の名前が結びつけられています。これらの旧村や旧村内の地域についても字名や行政区名に名前を残しています。また、旧三山木村域の大部分が三山木小学校区となっています。

    『廃止条例』簿冊

    『廃止条例』簿冊
    三山木村において廃止された条例が綴られている。

    普賢寺村

     普賢寺村は、上村、多々羅村、水取村、天王村、高船村、打田村の合併によって誕生し、初代村長には岡田近三郎が就任しました。6村とも江戸時代にはすでに同様の村域を持ち存在していました。この内、上村は地名としては残存していませんが、上村を除く5村は、地名や行政区名として現在も名を残しています。なお、上村は現在の普賢寺区周辺を村域としていました。

     普賢寺の村名は地域内に存在した「普賢寺」の寺名に由来します。現在、同寺は往時の形では存在していません。現在の観音寺は、普賢寺の本堂であったと言われています。国宝である木心乾漆造十一面観音立像(奈良時代)も、元々は普賢寺にあったものです。
     旧普賢寺村域の大部分が普賢寺小学校区となります。かつては打田に普賢寺小学校の分校がありましたが、昭和49年(1974年)に閉校となりました。

    打田小学校分校跡の石碑

    打田小学校分校跡の石碑(打田宮本)

    京田辺市の沿革

    京田辺市域各旧村の沿革

    参考資料

    『町村合併から生まれた日本近代』松沢裕作,2013年
    『京田辺市史資料編第3巻近代・現代資料』京田辺市史編さん委員会,2023年
    『京田辺市史資料編第5巻地理・民俗』京田辺市史編さん委員会,2024年
    『田辺町近代誌』田辺町近代誌編さん委員会,1987年
    『京田辺市の仏像』京田辺市,2007年
    『西神屋公園整備にともなう旧墓地の概要』田辺町,1995年
    『日本歴史地名体系第26巻 京都府の地名』,1981年
    「総務省ホームページ 市町村数の変遷と明治・昭和の大合併の特徴」https://www.soumu.go.jp/gapei/gapei2.html

    監修・作成

    監修:上杉和央(京田辺市史編さん地理・民俗部会部会長 京都府立大学文学部准教授)

    作成:市史編さん室

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    京田辺市役所市民部市史編さん室

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