昭和26年の合併による田辺町の誕生
- [2021年11月30日]
- ID:16332
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京田辺市史編さんの一環として、IT市史に取り組んでおり、京田辺の歴史や文化などをインターネット上で紹介しています。ここでは、京田辺市が現在の市域を持つ契機となった昭和26年の町村合併についてご紹介します。
合併による田辺町の誕生
京田辺市は、田辺町・草内村・大住村・三山木村・普賢寺村の1町4村が合併して田辺町となり、現在の市域を持つこととなりました。5町村は下表のとおりの沿革を持っています。昭和26年の合併前の時点では、図のとおり別々の町村として存在していましたが、町村合併の機運の高まりを受けて、昭和26年4月1日の合併により、現在に至る町域を持つ田辺町となりました。合併当時の各町村の人口と面積は下表のとおりとなります。
天保5年(1834) | 明 治 前 期 | 明治22年(1889) | 明治39年(1906) | 昭和26年(1951) | 平成9年(1997) |
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松井村 | 松井村 | 大住村 | 大住村 | 田辺町 | 京田辺市 |
大住村 | 大住村 | ||||
田辺村 | 田辺村 | 田辺村 | 田辺町 | ||
南田辺村 | |||||
田辺新田村 | |||||
河原村 | 河原村 | ||||
北興戸村 | 興戸村 | ||||
南興戸村 | |||||
薪村 | 薪村 | ||||
草内村 | 草内村 | 草内村 | 草内村 | ||
東村 | 東村 | ||||
飯岡村 | 飯岡村 | ||||
南山村 | 三山木村 | 三山木村 | 三山木村 | ||
出垣内村 | |||||
高木村 | |||||
山本村 | |||||
宮ノ口村 | 宮津村 | ||||
江津村 | |||||
水取村 | 水取村 | 普賢寺村 | 普賢寺村 | ||
多々羅村 | 多々羅村 | ||||
天王村 | 天王村 | ||||
高船村 | 高船村 | ||||
打田村 | 打田村 | ||||
上村 | 上村 |
合併前の京田辺
町村名 | 人口 | 面積 |
---|---|---|
田辺町 | 5,068人 | 10.58平方キロメートル |
大住村 | 3,095人 | 9.95平方キロメートル |
草内村 | 1,946人 | 4.54平方キロメートル |
三山木村 | 3,048人 | 5.34平方キロメートル |
普賢寺村 | 2,330人 | 13.22平方キロメートル |
合計 | 15,487人 | 43.63平方キロメートル |
「田辺町・草内村・大住村・三山木村・普賢寺村合併に関する調書」より
合併に至る流れ
この町村合併を必要とする理由として、町村合併時に作成された「田辺町・草内村・大住村・三山木村・普賢寺村合併に関する調書」において、「五ケ町村はその風俗、人情、習慣等各面に亘つて田辺町を中心として、一脈通ずるものがあり、殊に六三制の実施により、田辺町外四ケ村組合立田辺中学校を設立し、中学校を中心として既に五ケ町村は同一歩調にて自治の運営を進めつつありて、(後略)」と記載されています。5町村の地理的な共同性とあわせて、共同での中学校設立は町村合併への契機となったことがうかがえます。
町村合併は、京都府のあっせんにより昭和24年末から動きはじめ、昭和25年3月には町村間で合併調査委員会設置の話し合いが進められました。同年7月7日には第1回合併調査委員会が京都府田辺地方事務所で開催されています。その後、合併の基本構想や条件が固められ、各町村内での議論を経て昭和26年4月1日に大住村・草内村・三山木村・普賢寺村の4村が廃され、田辺町に編入統合され、田辺町が誕生しました。
合併記念式典の様子
合併後の田辺町
昭和26年には田辺保育所が開設され、昭和27年にははじめての町営住宅(関屋団地・10戸)が建設され、同年には『田辺町政だより(現広報ほっと京たなべ)』が創刊されるなど、現在の京田辺市の基盤が整備されていきました。
田辺町旧庁舎(昭和40年代)
田辺町政だより創刊号
参考資料
京都府田辺町史
田辺町近代誌
田辺町近世近代資料集
監修:佐野方郁(京田辺市史編さん近代・現代部会部会員 大阪大学日本語日本文化教育センター准教授)
作成:市史編さん室