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あしあと

    南山義塾と愛民義塾

    • [2023年5月2日]
    • ID:19058

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     京田辺市史編さんの一環として、IT市史に取り組んでおり、京田辺の歴史や文化などをインターネット上で紹介しています。ここでは、明治期の京田辺市域に開講されていた私塾である「南山義塾」と「愛民義塾」をご紹介します。

    京都府下の中等教育機関

     京都府下はじめての中等教育機関は、明治3年(1970年)に二条城北側の京都所司代跡に設けられた京都府中学校です。京都府は同年11月に中学校の諸規則を布達し、京都府中学校は12月7日から授業が開始されました。そこから明治17年(1884年)に3校の公立中学校が増設されるまでの期間、京都府中学校は府下唯一の公立中学校でしたが、郡部では私立中学というべきいくつかの私塾が開設されていました。
     丹後宮津の「天橋義塾」が明治8年(1875年)に、亀岡の「盈科(えいか)義塾」が明治12年(1879年)に、三山木の「南山(なんざん)義塾」が明治14年に、大住の「愛民義塾」が明治15年にそれぞれ開設され、小学校卒業後の青年達の中等教育機関として大きな役割を果たしました。

    明治10年頃の京田辺市域の中等教育機関

     明治10年(1877年)西川義延、西村篤などの地元の有力者らが発起人となり、棚倉孫神社の境内にあった旧松寿院を校舎として、「盍簪(こうしん)家塾」が開校します。盍簪家塾は、もとは京都市内の衣棚通竹屋町下ルにあったものが、田辺の旧松寿院に移されたものでした。
     盍簪家塾では、小学校を卒業した青年たちに漢文や歴史などを教えていましたが、生徒達はさらに充実した教育を望んでいたため、株券を発行して資金が集められ、南山義塾が開設されることになり、盍簪家塾は発展的に解消されました。

    南山義塾

                (京田辺市蔵)

     明治13年(1880年)には、京都府知事北垣国道に対して南山義塾開業願が提出されます。義塾設立のために、1株20円の南山義塾株券が発行され、187人が応募し、8,150円の資金が集められ、開業に向けて着々と準備が進められました。
     南山義塾は明治14年8月16日に三山木村に仮校舎を設け、仮開業しました。明治15年4月には同じく三山木村内に新校舎が完成し、移転します。「南山義塾新築見込案」(『田辺町近世近代資料集』収録)によれば、建築費は750円となっています。
     明治15年4月30日には、新校舎において開業式が行われ、南山義塾は正式に開業されました。開業式には、立憲政党本部からの来賓のほか、同志社からは新島襄が臨席し、演説を行いました。このときの新島襄の演説稿が残っており、「予ノ南山義塾ニ忠告ニ非ラス、唯望ム所ヲ陳ス」(私は南山義塾に対する忠告ではなく、ただ南山義塾に望むことを述べる)からはじまる祝言は、南山義塾の社員(株券による出資者)、教員、父兄、そして生徒に対して、新島襄の希望が述べられています。その中でも、教員に関連する言葉に分量が割かれており、「教員ノ任ハ殊ニ至重」、「教員ノ職ハ太政大臣ニマサル」と言い、その重要性を説いています。
     南山義塾の入学資格は、満14歳以上30歳未満の者で、小学下等全科の卒業証書を持つ者かそれと同等の学力をもつ者とされていました。同卒業証書を持たない者は入塾試験を受けました。入塾の際には50銭を納入し、毎月30銭の授業料を支払いまいた。なお、社員の子弟の入塾料は無料でした。最盛期の明治16・17年(1883・1884年)には50人を超える生徒が在籍していました。

    ※新島襄の祝言については『京田辺市史資料編第3巻近代・現代資料』に写真入りで全文が掲載されているほか、『田辺町近代誌』・『田辺町近世近代資料集』にも全文が掲載されています。

    愛民義塾

     大住村では、明治13年(1880年)12月に、地元の有力者である吉田喜内、樺井保親、西村彦四郎らが発起人となり、小学校卒業後の青年に補習教育を与えるための中等教育機関の設置が協議されました。学校設立のため、1株50円の株を56株発行し、得られた2800円を資金として、明治15年1月に、愛民義塾が私塾として設立されました。
     発起人のひとりである樺井保親が綴喜郡長に宛てた「愛民社私立学校設立之来歴」(明治14年2月)によって、当時の状況を知ることができます。同文書は「従来当地ニテハ学齢内外ヲ問ハズ、小学校ニ入ルモノハ其ノ学期甚タ短クシテ、早ニ農業ニ従事セシメ空ク不学ノ徒タラシムルモノ往々有之」という文言からはじまり、小学校の在学期間は短く、すぐに農業に従事する必要があり、充分な教育を受けることができなかったことがうかがえます。同文書には「有志者数名慨然意ヲ決シテ新ニ私立学校ヲ建設シ」とあり、この状況に対して地元有志が立ち上がり、愛民義塾が設立されたことがわかります。

    ※「愛民社私立学校設立之来歴」については『京田辺市史資料編第3巻近代・現代資料』に一部写真入りで全文が掲載されているほか、『田辺町近代誌』・『田辺町近世近代資料集』にも全文が掲載されています。

             大住校卒業証書(個人蔵)

           愛民義塾卒業証書(個人蔵)

     これは大住村村長などを歴任した安倉貞三郎氏の大住校(現在の大住小学校)と愛民義塾の卒業証書です。小学校を経て、愛民義塾に学んでいることがわかります。愛民義塾には普通・専門の二科が置かれ、それ以外にも夜に適宜時間を設けて、学齢の内外を問わず、学問の志のあるものには読・書・算の三課を教授しました。南山義塾と同様に、最盛期の明治16・17年(1883・1884年)には50人を超える生徒が在籍していました。

    京田辺市域の中等教育機関のその後

     明治17年(1884年)に、三山木中学校(山城)・宮津中学校(丹後)・亀岡中学校(丹波)の三校の増設が決定され、京都府中学校は京都府京都中学校に改称されます。増設が決定された三校は、明治18年に開校します。南山義塾、天橋義塾、盈科義塾はそれぞれの中学校に引き継がれ、その任を終えます。愛民義塾も明治21年に閉鎖されました。なお、新設された3中学校は、早くも明治19年に廃止され、京都府京都中学校に合併されます。

    ※『田辺町近代誌』は愛民義塾の閉鎖を明治21年としていますが、『田辺町近世近代資料集』掲載の「旧私立大住愛民義塾取調書」には明治19年2月廃塾と記されています。同じく大正4年の記録として『田辺町近世近代資料集』に掲載されている「大住尋常小学校沿革史」においては、閉鎖は明治21年とされており、両記述に矛盾がありますが、「大住尋常小学校沿革史」の注記として、「大正四年時点での記述に誤りがあるとは思えないが、あるいは学校閉鎖後何らかの業務が継続されていたものか。その間の事情は未詳である」と記されており、『田辺町近代誌』執筆者は「大住尋常小学校沿革史」の閉鎖年を最終的なものとしたと思われます。

    参考資料

    『京田辺市史資料編第3巻近代・現代資料』
    『田辺町近代誌』
    『田辺町近世近代資料集』
    『洛南大住村史』

    監修・作成

    監修:小林丈広(京田辺市史編さん近代・現代部会部会長 同志社大学文学部教授)

    作成:市史編さん室

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    京田辺市役所市民部市史編さん室

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