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あしあと

    石清水八幡宮駕輿丁神人

    • [2023年2月16日]
    • ID:18901

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     京田辺市史編さんの一環として、IT市史に取り組んでおり、京田辺の歴史や文化などをインターネット上で紹介しています。ここでは、東村の石清水八幡宮駕輿丁神人(かよちょうじにん)について説明します。

    補任状

     京田辺市東西神屋にある大徳寺には、寛永11年(1634)から昭和14年(1939)までの石清水八幡宮駕輿丁神人補任状(ぶにんじょう)が27通伝わります。このなかで東村の小川勝右衛門と松崎甚右衛門に宛てて出された寛永11年8月の補任状2通が最も古く、石清水八幡宮の祭礼で神輿を担ぐ役職の駕輿丁を任命するものです。補任状は八幡宮の公文書を交付する役所の公文所(くもんじょ)から出されます。公文所は八幡神を宇佐から勧請(かんじょう)した僧行教が自作したという公印(御正印)の管理も任されています。この寛永の補任状には公印が紙面全体に13箇押印されていますが、次第に数が減り寛文5年(1665)以降は1箇になります。公文所の長官は、「院」の一字を通字とし、これには法眼院玉が自ら花押(かおう)を認めています。

     現在国宝に指定されている石清水八幡宮の社殿は三代将軍徳川家光によって造営されましたが、下遷宮(げせんぐう)は寛永8年12月21日に、完成後の正遷宮(しょうせんぐう)は同11年8月22日でした。石清水の各神人は、家職あるいは神人株を相続するにあたって、祭礼前に神役を勤める身分証として補任状を受けます。松井村の袖幡(そではた)神人松井家には下遷宮の前、寛永8年に補任状が出されていますが、東村には寛永11年の正遷宮の時でした。東村には、おおむね修理完成後の正遷宮かあるいは8月15日の放生会(ほうじょうえ)に合わせて補任状が出されています。

    (京都府立山城郷土資料館寄託『大徳寺文書』)

    駕輿丁神人

     東村では村の宮座から当番の者二名が駕輿丁神人として勤仕するのですが、安永7年(1778)当番の山岡・村上の両名は公文所からの補任状発給にあたって、先例を差置き自身の名前で補任を申請しました。後日吉日に補任状を宮座で奉拝した時にこのことが発覚しました。駕輿丁神人は、東村の宮座の惣座中に補任されるもので、個々の家に出されるものではありません。宮座の両株とは、小川・松崎の両姓で、この時の当番である山岡源八と上村門次郎は、それぞれ小川源八、松崎門次郎と改名しなければなりませんでした。東河原村の駕輿丁神人は、自身の姓を小川・松崎に改名することで、宮座の惣座中として石清水に勤仕することができるのでした。宮座の惣中惣代と宮座年寄惣代から補任状の書き改めの願書を西主馬・南伝兵衛・大森与助・巽孫左衛門に宛てて提出しています。西主馬と南伝兵衛は、岩田村で各10石の朱印地を所持する駕輿丁神人長職です。大森与助は43石、巽孫左衛門も、おそらく朱印地を所持する駕輿丁の小頭でしょう。安永7年の補任状は小川源八と松崎門次郎であることから、長と小頭を通じて公文所から無事に補任状の再発行が行われました。

     祭礼参勤にあたっては、兼官(けんかん)と公文所から参勤者氏名の確認・招集の日時・装束の受取・返却日などについて成文・差紙という連絡文書が出されます。公文所への伝達窓口はおもに大森与助が行い、この長と小頭が南山城の村々の神人へ触れ回っていました。

     さて、放生会の絵巻を見ますと駕輿丁は前後に左右で各8人、鳳輦(ほうれん)1基を16人で担います。御神体にもっとも近く、鳥兜(とりかぶと)・裲襠(りょうとう)に藁沓姿(わらぐつすがた)で奉仕します。東村の駕輿丁神人は元文3年(1738)の請状には、三基ある鳳輦のうち第一の鳳輦の左初先とその後と位置が決められていました。祭列の中で鳳輦を奉持する駕輿丁は、もっとも注目されたことでしょう。

    (「紙本著色石清水八幡宮放生会絵巻」、交野市教育委員会画像提供)

    参考文献

    京都府立総合資料館編『資料館紀要』36号(2008年)

    京都府立大学編『京都府立大学学術報告』人文67号(2015年)

    作成

    竹中友里代(京田辺市史編さん中世・近世部会員 京都府立大学文学部特任講師)

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