水原秋桜子句集『殉教』と京田辺
- [2022年8月16日]
- ID:16347
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京田辺市史編さんの一環として、IT市史に取り組んでおり、京田辺の歴史や文化などをインターネット上で紹介しています。ここでは、水原秋桜子の句集『殉教』に詠まれた京田辺について説明します。
水原秋桜子
水原秋桜子は明治25年(1892年)生まれの俳人です。当初は松根東洋城に、のちに高浜虚子に師事し、虚子が主宰する「ホトトギス」に投句をしました。「ホトトギス」では、高野素十、山口誓子、阿波野青畝とともにホトトギス四Sと称され活躍しますが、昭和6年に「ホトトギス」を離れます。『馬酔木』を主宰し、新興俳句運動の旗手として、昭和俳句史俳壇史に大きな足跡を残しました。日本芸術院賞、勲三等瑞宝章などを得るなど、昭和56年(1981年)88歳で亡くなるまで精力的に活動した俳人です。また、産婦人科医としての顔も持ち、家業であった病院経営のほか、昭和医学専門学校(現昭和大学)教授、宮内省侍医寮御用係などを歴任しました。
句集『殉教』と京田辺
『殉教』は秋桜子17番目の句集として、昭和44年2月に刊行されています。あとがきで語られているとおり、『殉教』は九州旅行の作である連作の表題を書名としたものです。本句集には九州の他、京都や木曽、東北、伊豆など各地の旅行の作が収められています。
『殉教』には京田辺市で詠まれたと考えられる句が11句含まれています。11句のうち、以下に引用するとおり観音寺を詠んだ句が7句、一休寺を詠んだ句が4句掲載されています。
『殉教』書影
観音寺
普賢寺邑茶どころにして茶の咲ける
千年経て御佛います冬紅葉
冬薊むらさきのこす堂の前
厨子ひらく内金色に時雨菊
厨子照らす燭の穂長し時雨菊
やゝ寒の十一面や菊菩薩
残る菊黄なり妙音観世音
一休寺
築土皆かざさぬはなし冬紅葉
竹の穂を掴みゆらぎて鵯鳴けり
篁の奥処も照らふ冬紅葉
庫裡に見る青空すこし鵯の声
句の初出
句集に先だって、『馬酔木』の昭和43年1月号に「普賢寺観音」という連作が収められています。この時は、観音寺については「普賢寺邑~」と「厨子ひらく~」の2句を除く5句が、一休寺については「庫裡に見る~」の1句を除く3句が掲載されています。
同誌には「日記抄」として秋桜子の散文が掲載されています。それによれば、観音寺と一休寺に訪れたのは昭和42年11月20日となります。前日に俳人協会の関西大会のため大阪を訪れ、その翌日に京田辺に訪れました。「この寺の本尊は、天平時代の観音様で、実に美しいということを、大仏次郎さんの書かれた随筆を読んで以来、早く見たいものと、よい機会を待っていたのである」と秋桜子は書いており、このときに観音寺にはじめて訪れたと考えられます。
なお、大仏次郎には「普賢寺」という随筆があり、「聖観音は大和聖林寺にある立派な立像とくらべてよい美しいものだが、世間にあまり知られてない」(『大佛次郎エッセイ・セレクション1』:初出は昭和40年11月19日『神奈川新聞』)と書かれています。
観音寺と菊
観音寺を詠んだ7句のうち、4句に菊が詠み込まれています。7句には「普賢寺観音」と小題が付されており、「―普賢寺は、山城国木津川の畔にあり。本尊観音は天平時代の傑作にして容姿殊に端麗なり。里人自らつくりし菊の鉢を宝前にさゝぐ」と短文が記されています。地元の人が作った菊をそなえていたと秋桜子は認識した上で、菊を詠み込んでいます。前述の「日記抄」にも、「本堂には里びとのささげた鉢の菊が匂っていた」と書かれていて、秋桜子にとって、観音寺との取り合わせとして、地元の方が供えた菊の花が印象に残ったことがうかがえます。
観音寺と花の関係で言えば、菜の花が有名です。門前に咲く菜の花は春の風物詩となっていますが、観音寺と菊の関係については詳らかではありません。
観音寺と菜の花
観音寺ご住職のお話
観音寺を詠んだ句は昭和40年頃のものということですが、その時期に菊の鉢を仏様の前にお供えする習慣はありませんでした。
ただ、その時期の檀家総代さんで菊を育てている方が、観音寺にも年に一度、菊の鉢をお持ちになっていたようです。その時期は昭和40年頃と重なります。もしかしたら、その句に詠われている菊は、その菊かもしれません。菊をお持ちになっていた檀家総代さんが亡くなられてからは、菊を置いておくこともなくなりました。
(観音寺ご住職)
菊の句
秋桜子の代表句に「冬菊のまとふはおのがひかりのみ」(『霜林』収録)があります。晩年の佳句としては、「手のひらのわづかな日さへ菊日和」(『うたげ』収録)があるなど、秋桜子には菊の佳句が多くあります。『殉教』にも観音寺の句の他、大覚寺と付された「嵯峨菊の暮光も天にのぼりけり」など10数句の菊の句が収録されています。
二月堂竹送山城松明講社長であり俳人でもある松村茂さんは、秋桜子のこれらの句について、以下のように語ります。
菊と観世音菩薩
秋桜子といえば「冬菊にまとふはおのがひかりのみ」の代表句があり、特に菊の秀句が多い。また十一面観音との取り合わせの句も目立つ。
秋桜子主宰の結社「馬酔木」の一行が「一休寺」「観音寺」を訪れたのは昭和42年。まさに俳句の全盛期である。観音寺への道すがら、戸毎に育てられた自慢の菊が道ばたに並べられ、通りすがりの人々の目を和ませ、里の良さが都会人には特に堪えられない。
谷奥の本堂の屋根が見え隠れすると、いやがうえにも作意がわき、心の急くままに本堂へとすい寄せられたことであろう。天平時代の秘仏である十一面観音の扉が開けられ、秋光のさし込む尊像の姿をまのあたりにした時は、だれもが息を呑み込む一瞬である。
「普賢寺邑茶どころにして茶の咲ける」の挨拶句に始まり、晩秋の観音寺が心ゆくまで歌い込まれたこれらの秋の句は、令和の今も変わることのない観音の里の姿である。筆者の句にも「観音寺前も後ろも竹の秋」がある。
この一文を書くにあたり、現「馬酔木」の同人で、秋桜子から直接教えを受けられた東大寺長老狭川青史さんに、秋桜子についていろいろと伺った。長老は大正9年7月生まれ。昨年満百歳を迎えられ、今も俳句作りに精進されている。ご教示に感謝したい。
(松村茂)
参考資料
水原秋桜子(1969年)『殉教』
水原秋桜子(1980年)『季題別 水原秋桜子全句集』
大佛次郎(1996年)『大佛次郎エッセイ・コレクション1 歴史を紀行する-幻の伽藍』
橋本榮治(2014年)『水原秋櫻子の一〇〇句を読む』
『馬酔木』昭和43年1月号
監修:松村茂(京田辺市史編さん地域協力員、二月堂竹送山城松明講社長、元俳人協会会員、元結社「天為」同人)
作成:市史編さん室