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    日露戦争時の軍事郵便

    • [2021年9月22日]
    • ID:16124

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     京田辺市史編さんの一環として、IT市史に取り組んでおり、京田辺の歴史や文化などをインターネット上で紹介しています。ここでは、京田辺市に寄託されている日露戦争時の軍事郵便について紹介します。

    軍事郵便とは

     軍事郵便とは、戦地の兵士が日本国内にいる家族などとやりとりした手紙のことです。京田辺には、日露戦争に出征した山本区出身の兵士、小泉辰之助がやりとりした軍事郵便が、約470通残っています。辰之助が地元の人や家族に送っていたものや、辰之助の元に日本から届いたものが現在まで保管されており、当時の兵士の生活や思いが綴られた貴重な資料となっています。

     日露戦争時の軍事郵便が大量に保管されていることはめずらしく、この軍事郵便は、個人がやりとりしたもので現存しているものとしては、日本最多クラスであると考えられます。これほど多く残った理由として、辰之助が郵便をやりとりしやすい環境にあり、郵便をやりとりする相手も多かったことなどが挙げられます。

    小泉辰之助がやりとりした軍事郵便(個人蔵)

    日露戦争時の軍事郵便

     日本で日露戦争中にやりとりされた軍事郵便は、戦地からの発信数2億2448万9千通、戦地への到着数2億3464万通、合計4億5912万9千通といわれています。戦地から出す場合は原則として無料、日本国内から出す場合は通常料金である封書3銭、葉書1銭5厘を支払いました。戦地にいる兵士たちは、日本国内の家族や知人と手紙をやりとりすることを何よりも楽しみにしており、小泉辰之助の軍事郵便でも、手紙を心待ちにする様子がうかがえます。

    小泉辰之助の経歴

    (1)出征するまで

     日清戦争では近衛師団に所属し、台湾での戦闘に参加しています。明治28年4月の日清戦争終結後、日本国内に戻った辰之助は、明治30年1月6日に綴喜郡役所雇となり、同年8月27日には綴喜郡役所書記となりました。その後、日露戦争に従軍するまで綴喜郡役所書記として勤務していました。

    (2)出征後

     辰之助の書いた従軍日誌によると、明治37年9月10日に歩兵第38連隊補充大隊第4中隊に召集されました。所属する部隊は、明治37年12月9日に伏見兵営を出発し、10日大阪の築港から出港して13日鎮海浦(朝鮮半島南部)に到着しました。20日に大連湾に到着、青泥窪(ダルニー、大連にロシア側がつけた名称)に上陸した後、家族に宛てて21日午前より旅順へ進軍する予定と書いた手紙を出しています。辰之助は、明治37年12月23日歩兵第38連隊第7中隊に編入、第1小隊分隊長となりました。明治38年1月1日から第7中隊本部給養係を命じられ、兵士の衣服や食料の分配を担当しました。明治38年1月18日、大隊命令により第1師団第15連隊第3中隊と守備地を交代するまで、旅順で軍務につきました。

    出征後の行程(明治38年4月まで)
    日程  行程
     明治37年12月9日 伏見兵営出発→列車で大阪梅田駅着→京橋で宿泊
     明治37年12月10日 午前10時、築港(大阪)から東都丸に乗船
           12月11日 門司港(福岡)に碇泊
           12月12日 馬関ノ海岸に碇泊
           12月13日 鎮海浦(朝鮮半島)に到着
           12月15日 暴風雨のため八口湾(朝鮮半島)に碇泊(~16日)
           12月18日 八口湾を出港
           12月20日 大連湾到着、青泥窪に上陸、土砂町大山町に宿営
           12月23日
     旅順大孤山麓に到着、各中隊に補充員を配当
     明治38年1月18日
     大隊命令により第15連隊と守備地の交代のため出立準備
           1月19日 第1師団第15連隊第3中隊と引継ぎ完了、小孤山露営地を出発
           1月20日 南関嶺到着、汽車で海城に向けて移動
           1月21日 海城駅に到着、黄亮子で宿営
           2月8日 中隊命令により鄧家台の中隊は10日から八里河子へ転宿
           2月10日 移動、八里河子に転宿
                     2月18日 八里河子を出発、牛荘へ移動
           4月19日 大隊は海城北町へ移転、第7中隊第1・第3小隊は牛荘を守備

     従軍日誌は明治38年4月28日で記述が終わっていますが、2月~3月は大きな移動もなく、給養係の仕事や戦地で演劇の催しがあったことなどが書かれています。同年7月31日、樺太のロシア軍が降伏しました。辰之助は牛荘付近で守備をしながら、終戦を迎えたと考えられます。その後、10月に家族へ宛てた手紙に、帰る準備で忙しく、11月には凱旋できると考えていると書かれています。

     死因はつまびらかではありませんが、辰之助は日本へ帰国することが叶わないまま、11月13日、盛京省(遼寧省)の療養所にて亡くなりました。

    戦地からの絵葉書

     辰之助が出した軍事郵便は、書簡のほか絵葉書もあり、明治38年8月16日に出された絵葉書には、壺で入浴する兵士が描かれています。こうした絵や写真入りの絵葉書は、慰問袋(日本国内から戦地の兵士を慰めるために送られた、日用品や娯楽品などを入れた袋)などで兵士へ分配されました。
    「八月六日出の手紙たしかに着 拝見いたしました皆〃 御達者の由目出度候 御蔭で私も無事です ご安心被下候 此絵お(ママ)能くよくごらん せんちのふろは、こんなものです 壺で入浴いたします 壺のないときは酒樽でやるのです さいなら 又あとより」

     従軍日誌では、明治38年1月11日にロシア兵の使用していた風呂にて初めて入浴したと書かれてあります。船にトタンで作った風呂に、鍋に沸かした湯を入れて入ったようです。その後、同月に壺風呂に入るという記述がみられます。

    小泉辰之助の絵葉書(個人蔵)

    小泉辰之助の絵葉書

     小泉辰之助の軍事郵便からは、遠く離れた故郷の家族を思い手紙を書いていることや、家族からの手紙を心待ちにしながら戦地で過ごしていることがわかります。手紙には、戦地での入浴など、生活の様子が綴られているものが多いことが特徴で、山本区から出征した兵士の実態を知る上で、貴重な資料といえます。

    参考文献

    (1)新井勝紘(2006)「軍事郵便の基礎的研究(序)」『国立歴史民俗博物館研究報告126』
    (2)磯永和貴(2018)「日露戦争の日記と写真と軍事郵便」『東亜大学紀要27』


    監修:原田敬一(佛教大学歴史学部名誉教授)

    作成:市史編さん室

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