一昔前の京田辺のくらし:牛での耕作
- [2021年4月1日]
- ID:15946
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生駒翠山が描いた牛での耕作
昭和初期から昭和39年に亡くなるまで京田辺に住んでいた画家の生駒翠山は、絵葉書に牛での農耕の様子を描いています。
「二三日のうちに いつせいに 田植が初まりました
門前は湖の如く拙 房は浮島の感が あります
残蛍飛び 蛙しきりに鳴き ます」
昭和4年6月23日絵葉書表面(京田辺市蔵)
絵葉書裏面(京田辺市蔵)
牛と農業
絵葉書には、牛に馬鍬(まんが)という農具をつけてひかせている様子が描かれています。馬鍬は、田植え前、水を張った田の土を細かく砕いて平らにならす作業に使いました。農耕に機械が導入される前は、人力だけでは負担の大きい作業に牛を利用していました。
昭和54年頃の天王の農家(松村茂氏撮影・京田辺市蔵)
馬鍬(京田辺市蔵)
牛の練習用のおもり(京田辺市蔵)
牛の草鞋(京田辺市蔵)
牛の役割
牛が身近であった頃、農家では庭に牛舎を建てて飼育していました。1軒で飼育する場合もあれば、2,3軒が交替で飼育する場合もありました。毎日、田んぼのあぜ道で草を刈って牛に与えていたといいます。牛は農耕のほか運搬にも活用されており、昭和初期まで、米俵など重い荷物は牛に運ばせていました。
このように人々のくらしに牛は重要な存在でしたが、昭和30年頃から農業に耕耘機が取り入れられるようになり、運搬用のトラックが普及すると、牛は徐々に減少していきました。
牛まわし
京田辺には「牛廻し」という行事があります。毎年6月5日になると、牛を飼育している人々が、「牛廻しの森(大住岡村)」、「牛廻しの松(大住西八・月読神社付近)」、「牛頭天王の石碑(松井)」、などと呼ばれる場所へ牛を連れて行き、森や石碑の周囲を廻り、牛の厄除けを祈願しました。牛は前日から洗い、ツノに菖蒲や赤・紫の布などを飾り、当日は粽(ちまき)を持って行き、牛に食べさせることもあったそうです。この日は田植え前の休息日で、人々も仕事を休みました。そのほか、「朱智神社(普賢寺天王)」、「牛の宮(薪)」、「白山神社の松(三山木宮ノ口)」でも牛を連れておまいりしたといいます。
「大住村諸記録」(京田辺市蔵)によると、安永3(1774)年「三十八 神墳」の記述に「一、西八牛廻 御霊之東峯ニアリ」「一、林東牛廻 林大念寺領」とあり、西八と東林で牛廻しをしていたと考えられます。さらに「四十四 村中牛数事」の記述にも「一、八小路村 拾疋 かわゐともりハはやし之牛廻し候、五月節句ニ祭ル」とあります。「樺井(かわゐ)」「森(もり)」の名前があり、彼らは5月の節句(5日)に牛廻しをしていたと考えられます。ここから大住では、江戸時代に牛廻しが行われていたことがわかります。
京田辺のくらしと牛
参考文献
(1)興戸の歴史編集委員会編(1974)『興戸の歴史』
(2)田辺町老人クラブ連合会編(1975)『田辺の昔ばなし』
(3)印南敏秀(1985)「田辺町の農耕儀礼」京田辺市郷土史会編『筒城』第30輯
(4)薪誌刊行委員会編(1991)『薪誌』
監修:向田明弘(京田辺市史編さん民俗・地理部会員 京都府教育庁文化財保護課技師)
作成:市史編さん室