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あしあと

    大住の桃について

    • [2020年6月2日]
    • ID:14924

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     京田辺市史編さんの一環として、IT市史に取り組んでおり、京田辺の歴史や文化などをインターネット上で紹介しています。ここでは、京田辺市が所蔵している歴史資料に記された大住の桃について紹介します。

    大住の桃畑

     京田辺の特産物の一つに、大住の桃があります。かつては、大住の岡村や三野周辺に桃畑が広がっていました。現在でも、JR大住駅付近には桃畑があり、春になるとピンク色の花を咲かせ、夏になると京田辺の特産品として桃が出荷されています。

     昭和9年頃に大住村出身の府会議員が中心となり、大住の仲ノ谷・責谷の山林に桃の苗を植え、桃林が形成されていったと言われています。一方で、大住の桃は後述するように、昭和よりさらに以前から栽培・販売されていたことが明らかになっています。

     桃は冬場に剪定します。5月から6月頃、花が終わって実が少し大きくなってきたら、下を向いていて大きめの桃をひと枝に1つ選び、それ以外の実は落とし、枝に残した実に袋を被せます。収穫は7月から8月頃にかけて行われます。

     昭和20年頃、桃を出荷するために、松の木の部材を組み合わせて箱を作っていました。1箱につき桃は15~20個ほど入れ、木を割いて細長くして綿状にした木綿(もくめん)を巻いて、桃が傷まないようにしました。毎日100箱あまり必要でしたが、大量の箱作りは農家の子供たちの仕事でもありました。こうした木箱も、昭和30年頃になると段ボールが使用されるようになり、作られなくなりました。 

     市場に出荷された桃は、主に贈答用として購入されていました。桃の値段の相談や備品の共同購入は、桃を作る農家によって組織された「大住果実出荷組合」で行われました。

    昭和50年代の桃畑(松村茂氏撮影・京田辺市蔵)

    昭和20年代以前に使用された「大住果実出荷組合」のラベル(個人蔵)

    大住の桃は江戸時代から特産品?

     大住の小田家の古文書「大福万日記覚帳」(京田辺市所蔵)には、幕末の慶応3年(1867)に大住で桃を栽培し、京や近郊へ販売していたことが記されています。桃の売り先には、京の水菓子(果物)問屋の河内屋権右衛門や淀問嘉(現伏見区淀)、赤池(現伏見区下鳥羽)、上津屋(現八幡市)がありました。淀には青物市場が存在し、赤池・上津屋には近くに木津川・桂川付近の浜があり、売り上げから船賃が差し引かれていることから、品物を川船で運んでいたと考えられます。

     江戸時代から明治時代まで、南山城の桃の産地は、大住村から程近い寺田村(現城陽市)でした。大住村は、明治時代には李(すもも)の栽培が盛んで、明治18年には兵庫県の大李(おおすもも)の苗を植えて成功し、その後、栽培が広がりました。そして昭和9年、桃林が形成されたことで、桃の栽培が盛んになりました。

     このように、江戸時代に大住で栽培されていた桃が、そのまま昭和期の桃へと引き継がれたわけではないようです。


     監修:竹中友里代(京田辺市史編さん中世・近世部会員 京都府立大学文学部特任講師)
     作成:市史編さん室

    参考文献

    (1)京都府農会(1909)『京都園芸要覧』

    (2)城陽市史編さん委員会編(1979)『城陽市史』第2巻

    (3)田辺町近代誌編さん委員会編(1987)『田辺町近代誌』

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