一昔前の京田辺のくらし:コクマカキ
- [2020年7月6日]
- ID:14855
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コクマカキとは?
「コクマ」とは、京田辺で落松葉を指す方言で、場合によってはそこに落葉や枯れ枝などの意味も含まれています。生駒翠山の絵葉書では、枯れ枝を拾い集めることを「コクマかき」と呼んでいます。京田辺では、各家庭にガスが普及するまで、冬にコクマカキが行われていました。
生駒翠山が描いたコクマカキ
昭和初期から昭和39年に亡くなるまで京田辺に住んでいた、画家の生駒翠山は、昭和2年11月、コクマカキをする人々の様子を絵葉書に綴っています。絵を見ると、手ぬぐいを被り、熊手と枯れ枝のようなものを背負って歩く人とその側をついて行く子供が描かれています。
「木枯しが来ました 柿一葉を不残散り尽しました 松も下枝が黄ばんで来ました。
下の里からかれ枝をひろいに来ます この辺ではこの事をコクマをかくと云ひます
風の吹く日は親子連れのコクマかきが暢気な声を出しながら、画房の下を通ります 小生の心も平和になります」
昭和2年11月20日絵葉書表面(京田辺市蔵)
昭和2年11月20日絵葉書裏面(京田辺市蔵)
興戸のコクマカキ
興戸では、12月上旬にコクマカキが行われていました。1年間で使用する燃料となるコクマを、家族総出で集める行事です。この日、1年間に使用する分をすべて集める家もあったそうです。コクマは燃えやすく、割木に火をつける補助に使われました。
当日まで山に入ることは禁止されますが、この日になると、興戸の山ならどこからでも、コクマを集めてよいことになっていました。日時は区長が決定し、青年団が8時に作業開始の太鼓を鳴らしました。コクマは、竹製で柄のついた熊手でかき集めました。当時の様子について、『田辺の昔ばなし』にて、興戸の住民は次のように語っています。
「前日より用意番端、当日は早朝より出掛ける。早いものは午前4時頃提灯をさげて行く。神社より奥は通行止め、青年団の監視、それまでに山に上って作業開始に太鼓を待っている。神社附近は人、車の行列数町に及ぶ。8時頃、青年団の太鼓を合図にそれぞれ目的地に駆足進軍全迫兵戦さながらの光景である。山へ着くと同時に作業開始、10時頃には諸々方々に「コクマ」の山が出来ている。」
作業は昼休憩を挟んだ後も続き、午後3時頃から、男性がコクマを家々へ運んで帰ったそうです。コクマは、フゴと呼ばれる稲藁で編んだ円形の入れ物に7,8杯も積んで、ダイハチグルマ(大八車)と呼ばれる人力の荷車に乗せて運んだといいます。その後、興戸の家庭でプロパンガスが使用されるようになると、コクマカキは行われなくなりました。
藁で作られたフゴ(京田辺市蔵)
山本のコクマカキ
山本でも、冬になるとコクマカキが行われていたといいます。当時の様子について、住民は次のように語っています。
コクマカキは冬の仕事で、子供の頃、親について行った覚えがあります。昔、風呂やかまどを使うとき、燃料の木を燃やすために、コクマをかいてきたのを焚き付けにしていました。山本区の人は、現在の同志社山手や精華町の辺りに個人で山をもっており、そこに行ってコクマをサライゴで集めて、丈夫な袋に入れて、リヤカーで家まで運んでいました。コクマは木の葉っぱで、枝も含まれてはいましたが、軽かったのです。ガスを使うようになった昭和30年頃まで、コクマカキをしていた記憶があります。なお、昔はコクマカキをすると山がきれいになり、松茸が採れたものでした。
京田辺市山本区住民(70代・男性)
竹で作られたサライゴ(個人蔵)
コクマを運ぶ袋(個人蔵)
京田辺のコクマカキ
参考文献
(1)興戸の歴史編集委員会(1974)『興戸の歴史』
(2) 古川章編『田辺の昔ばなし』(1975)田辺町老人クラブ
(3) 田辺町近代誌編さん委員会編(1987)『田辺町近代誌』京都府田辺町
監修:向田明弘 (京田辺市史編さん民俗・地理部会員 京都府教育庁文化財保護課技師)
作成:市史編さん室