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    生駒翠山の描いた京田辺

    • [2020年5月22日]
    • ID:14772

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     京田辺市史編さんの一環として、IT市史に取り組んでおり、京田辺の歴史や文化などをインターネット上で紹介しています。ここでは、京田辺市が所蔵する京田辺ゆかりの画家・生駒翠山(いこますいざん)の絵葉書を紹介します。

    生駒翠山の描いた京田辺

     生駒翠山は京田辺で暮らした画家で、明治22年(1889)に和歌山で生まれ、昭和39年(1964)に多々羅で亡くなったと伝えられています。大橋翠石の弟子として東京で絵を学んだと紹介されており(『筒城』48号)、白馬会第11回展(明治40年)や日本自由画壇第3回試作展(大正14年)の目録にその名が見えますが、華やかな美術界でどのような活躍をしていたかは全く知られていません。京田辺での暮らしぶりがいくらか記憶されている程度で、近隣に残された作品が翠山の画業を偲ばせるわずかな手がかりでした。
     ここでご紹介する絵葉書は、古書店で販売されていたものを市史編さん室が令和元年に購入したものです。普賢寺村に移り住んだ翠山が昭和3年(1928)から3年ほどの間、支援者と思われる京都市の医者、斎藤圭介に送ったものでした。驚かされるのは内容の多彩さで、昭和初年の京田辺周辺の様子が97枚の葉書に、いきいきと、魅力的に描かれています。翠山が親しみをおぼえた動植物をはじめ、現在では見ることのできない当時の営みや景観も含まれます。これらは歴史的な記録として貴重なものですが、一人の画家が魅力を感じ、居を定めた京田辺の往時の姿でもあり、京田辺市の所蔵となったことは喜ばしいことだと思われます。京田辺に暮らす方々がこの絵葉書をご覧になり、日常で目にしておられる光景と比較すれば、発見も少なくないのではないでしょうか。

       中野慎之(京田辺市史編さん美術工芸・建造物部会員 文化庁文部科学技官)


    生駒翠山の絵葉書

    (1)自宅への案内図(昭和3年5月6日)

    (2)翠山宅前の田(昭和3年6月22日)
    「夕食後、先の家まで便(たより)を出しにゆきますが、この小径(こみち)に立つた時は実にいいと思ひます、人間苦の一切から逃れる事が出来ます」

    (3)田甫の情景(昭和3年7月13日)
    「日の暮、田川に炊(かし)ぎ、夫は風呂へはいる迄(まで)の汗を流して、小景は至るところ見られます、なんとのどかな自然ぢやありませんか」

    (4)虹(昭和3年10月5日)
    「今日午後一ト時、木枯に似た寒い風が吹きました、然(しか)し直(す)ぐやんで温かくなりました、夏あまり見なかつた虹が不思議にも秋の此頃(このごろ)に時々出ます」

    (5)「田舎の奉祝の賑わひぶり」(昭和3年11月14日)
    「一度見物したいとも思ふのですが恐ろしいような気もします、然(しか)し名残りだけでも是非見物したいと思つています、遠雷の如き礼砲にて、はるかに都の奉祝を予想してます」
    ※この秋、昭和天皇の即位儀礼である昭和大礼が京都御所などで行われていました。

    (6)娘のオカゲオドリ(昭和3年12月25日)
    「何の事だかさつぱり解(わか)りません、正月には長い袖の着物を着て踊るのだといつて、馬鹿に御機嫌の態です」
    ※おかげ踊(おどり)は江戸時代に伊勢神宮へのおかげ参りを背景に広く流行した踊で、南山城においても各地に伝わりました。

                                            ※「」書きの文章は絵葉書の表裏に記されたものの一部を抜粋したものです。

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    生駒翠山の思い出

     私は生駒翠山の家の近くに住んでいました。幼少期の記憶ですが、翠山の家には、玄関に親子の虎の絵が飾られ、奥の間には鳥かごに入った九官鳥が元気に鳴いていたのを覚えています。
     翠山は農作業などは行わず、絵を描いて生活していたようでした。翠山と言えば虎の絵ですが、寅年生まれの父は翠山から虎の絵の掛け軸をいただき、今でも私の家で大切に保管しています。翠山の絵を持っている人が普賢寺地域には少なからずおられますが、それは、翠山が糊口をしのぐために虎の絵などを描いて売っていたからというのと、また翠山を盛り上げる後援会のようなものを普賢寺地域でつくっていたからだと思います。
     それと、翠山が竹で茶さじを作っていたのを覚えています。昔の家は屋根が茅葺きで、何十年かするとカマドの煙で天井の竹がいぶされてチョコレート色の「煤竹」ができます。その「煤竹」を材料にして作った茶さじは、少し高い絵を売る時に、サービスで渡していたようです。
     もうだいぶ昔のことなので、記憶に残っている翠山の思い出はおおよそこれくらいです。

       京田辺市多々羅区住民(80代・男性)

     虎図(個人蔵)

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